ブレークダンスはニューヨークのサウスブロンクスで生まれたんですね。始まりは70年代まで遡るようで当時はヒップホップと呼ばれるストリートダンスだったんですね。ディスクジョッキーが使う音楽はソウルやファンクミュージックがベースだったようです。当時のソウルの神様といえばジェームスブラウンですが、DJ達はこれら市販されている音楽をストリートダンスに特化するように手を加えたんですね。リズムを重視するためボーカルラインを取り除きパーカッションとベーストラックだけを残したそうです。さらにノリのいいリズムの箇所だけをループさせたり、二つあるターンテーブルの一つを全く別のジャンルであるラテン音楽とミックスしたりとダンスのバックグラウンドにあわせるトリックをしていたんですね。もちろんデジタル音楽のない時代、録音したそれぞれの楽器のアナログトラックのテープを切ったり貼ったりと文字どうりこわして(ブレーク)して出来上がった新しいジャンルだったんですねえ。
この発端となったのはあるDJが 妹のパーティーで演奏を頼まれその時ある事に気づいた事からだったんだそうです。それがブレークダンスミュージックの先駆けとなったDJ Kool Hercです。
Breakdance was created by local African and Latin-American youngsters. It is commonly believed to come into existence through a disc jockey who lived in the South Bronx, who organized parties in the neighborhood. His name was DJ Kool Herc. Being a DJ, he played at block parties in the early 1970’s in the South Bronx area of New York. He would play the ‘breaks’ of soul and funk songs of artists such as James Brown. The ‘breaks’ are the parts of a record without vocals, with pure rhythm, percussion and bass. Kool Herc would isolate these parts of the track and loop them, and encourage the people at the party to get down to these breaks.
1973年のことらしいですが、DJクールハークが妹のパーティーでソウル音楽を演奏中、二つ目のターンテーブルには全く違うラテン音楽形のものを割り込ませて見たところ、なんだかいいノリだあとなって繰り返していくとラテンが入ってきたりパーカッションが入ってきたりするとテンションが変わるせいで傍で休んでいる人が中央にきて踊り出したり、逆に踊っている人が休んでブレークしたりとそんな事に気づき初めたそうです。
そうしてるうちにいつしかブレークしている人、そうでない人とで順繰りにダンスをしていくうちにお互い競い合うようになりダンスバトル形態が生まれたんですねえ。
結果的に見るとかなりクールなことを思いついたもんです。youtubeでもたくさん上がっていますがどれを聞いても当時のアナログ感のあるなんというか泥臭いというか、人の踊っている汗を感じさせるような古臭い感じがとてもいい感じでタイトです。
下記リンクの後半でも説明している黒人のおにーちゃん、DJ クール ハーク彼自身ですが, “We got some hit! and people like oh, yeah! I’m feeling it!” なんてごきげんに説明しています。本人はまさかこのジャンルがオリンピックの公式主目に使われる事になるとは夢にも思ってなかったでしょう。
80年代に入りさらに人気を増したブレークダンスですが、この時代のブロンクスは荒れ果てた時代だったそうです。ドラッグやギャングが街に蔓延してしまい地元で踊るストリートキッズでさえ危険だったようです。
The 1980s were a rough time in many urban communities, but the Bronx faced some of the worst fallout. With the crack epidemic spreading through communities, abandoned buildings being set on fire for the insurance money and gang violence killing the youth, many looked for a positive outlet to not only express themselves, but also gain pride in their communities. Scott sees those same issues from the 1980s reflected in today’s community.
ニューヨークからのブレークダンスブームはロサンジェルスにも広まっていく中、エレクトロミュージック、ソウル、R&B, などを実験的に取り入れたクラブがありました。ロスのダウンタウンから少し西に位置するウエストレークと呼ばれるエリアにあるマッカーサー公園のそばにあったRadio Club (ラジオクラブ) と呼ばれるクラブですが、Ice-Tがホストを勤めていたりマドンナが様子を見に来たりと、東海岸の有名アーティストが西海岸へと行き来する格好の架け橋となる場所だったようです。
As New York City’s foundational hip-hop presence continued to develop, more people started experimenting with electro-music, funk and R&B as well as dance forms like popping and locking in Los Angeles. Radio Club became integral to that new movement in the city. It became a place for emerging artists to bring what they saw from the East Coast to the West.
As New York City’s foundational hip-hop presence continued to develop, more people in Los Angeles started experimenting with electro-music, funk and R&B, and dance forms like popping and locking. The place to do it was Radio Club in MacArthur Park. It became a place for emerging artists to bring what they saw from the East Coast to the West — and apply their own L.A. spin. Ice-T was the MC. Madonna would hang out to check out the trends.
Then enter a dancer from MacArthur Park named Carmelo Alvarez, who transformed the club into the space known as Radiotron — where kids could go after school to breakdance and work on their art.
ラジオクラブはその後メキシカンアメリカ人Carmelo Alvarez (カルメロ アルバレズ)という地元ダンサーに引き取られ、1983年、彼は Radiotron ラジオトロン (正式名称はYouth Break Center, Inc ユースブレークセンター)と呼ばれるブレークダンスルームへと変換、当時のロスでのブレークダンスブームの聖地となったわけですね。当時の入場料は75セントほどで、キッズはギャング文字のグラフィティに囲まれた室内で一日中ブレークダンスに没頭できたそうです。
そんなブレークダンスメッカニューヨーク、ロサンジェルスからなぜ今回初めてとなるパリオリンピックゲームでアメリカ選手はメダルが取れなかったのでしょうか。一位は日本人、2位と3位はリトアニア、中国と意外に思いましたが、多分ブレークダンス自体アメリカ人にとってすでに古いジャンルとして魅力が’落ちてしまったような気がします。そしてもう一つの理由には、すでにオリンピック種目となった事で、審査内容はストリートスタイルよりも形式に拘らなければいけないわけで自由で開放的なストリートトダンスとは別物扱いされているのかもしれません。そうなると自分で思いついたユニークで歪な動きだけでは高得点は得られないわけで、本来多少ドラッグも入っているかもであろうストリートでの好き勝手状態はあり得ないんですね。
そう考えてもやはり閉会式のオーストラリアのおねーちゃんは場違いだったのかもしれません。どうしてもストリートの荒削りで危ない感じも、形式重視に対応したダンス技術を習得したようにも見えません。世界中からの誹謗中傷に本人がインスタでやめてくださいとコメントしていましたが、まさかここまでの反応とは思ってもいなかったでしょう。